それは、何か出来事があって
「絶望した」
じゃなくて、
いったんその絶望に気がつくと
「ああ、そういえば、生まれた時から
ずーっと絶望してたよね」
という、

絶望の中に私はいた。
というモノです。

うわー(;´Д`)

そんな
ゼツボー話の前に、突然ですが
白隠禅師の<座禅和讃>の
話をしたいのですが。

東京・中野あたりに住んでた時、
近所に座禅道場があり、
一時期出勤前に
週1ぐらい通っていた(シブイ20代だな)、
そこは白隠禅師の流れの道場でした。

白隠禅師が唱えたのが座禅和讃です。

「衆生本来仏なり
水と氷のごとくにて
水を離れて氷なく
衆生の他に仏なし」

超訳→
仏と凡夫の違いは、
水と氷のようなもので、
本来我々は仏なのである。

そして、
我々は水の中にいるのに、
渇きを叫ぶ魚のようなものだと。

で、
一方「絶望」の話。
絶望に気がついたワタシ、の話です。

「仏性と衆生が水と氷のごとく」であると同時に、
「絶望と衆生も水と氷のごとく」である。
矛盾するようでも。という感じです。

ここで言う絶望は自分の
心の望みが叶わないとか
失恋してがっかりとか、
お金持ちになれないとか、

辛酸舐めてきたとか、
不幸な身の上とか
自信がない、
自己肯定感がないとか
そういうものでもない。

これら↑は
憐憫(-れんびん-哀れみ)、
という感覚に近いと思う。

それとは違う本質的な絶望は、
空虚、喪失に近い。

というのも、
この世界では本質的な自己を生きられない、
あるいは自己と思いこんでいる
その囚われから脱することができない状態。

自己の本質などわからず、
かつ自己に囚われた状態がほとんどだから。

え、なにこの世界。
え、なにこの肉体というもの、
とか。

あああぁぁぁ

この絶望は
気がつけばいつもあったじゃん。

ただ、私(私達)は
静かな絶望に
気がつかないように、

様々な不安からも逃れるために
時間を埋め、忙しくして、
過去を振り返り、未来に目を向け、
より幸せになるように
自分を頑張らせてきた。
「願望成就を引き寄せよ」、とか。

ゆえに
未来の希望、
◯◯になったら幸せだ~と信じるのは
ひとつの酩酊状態であり、
絶望を認識できていない、
ゆえにそれこそ絶望である。
てな事をキルケゴールも言ってたんだーって最近知った

も~、そんな感じになってしまいまして。

このメンドクサイのがちょっと
次回に続く

アーティスト/ボディワーカー
仲丸友恵
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